太陽の炎

小坂「今年の一年は有望そうだよ」
小田「どういうふうに?」
小坂「ハードSFや、アシモフ・クラーク・ハインラインという基本を押さえつつ、ジーターやエッフィンジャーも読む、と言う人が何人かいるようだからね」
小田「それは、早川の戦略に乗ってるだけなんじゃないのか?」
小坂「ふむむ」

 なるほど、確かにその通り。でも、この戦略はかなり歓迎できるものじゃないだろうか。早川はもう一方で、いかにもSFSFした、買うのが恥ずかしくなるようなタイトルの本をたくさん出版している。(中身もタイトルと似たり寄ったりの場合が多い)それを思えば、ジーター・エッフィンジャーは早川の良心といえるだろう。僕は高く買っている。

 躍らされているのでなければ、踊っているのさ。

 さて、前作『重力が衰えるとき』から見ていこう。サイバーパンクを意識した表紙、アラブ人の格好をしたエッフィンジャーの近影、ハードボイルドタッチの文体の内容紹介ーこの本の本質は、実はこの装丁に示されている三つの要素の合体である。

 しかし、エッフィンジャーの意図が「しあわせな融合」にあるとは考えられない。もともと無理なのだ。ハードボイルドは肉体から離れられないがゆえにSF性を制限する。かつてニューロマンサーが肉体からサイバースペースへの離脱を書いたのと対象に、本書では人格をモディーというチップにとじこめ、モディーを肉体の中に埋め込む。人間は肉体というユニットに縛りつけられたままである。こうした傾向は『太陽の炎』にも引き継がれている。たとえばトランスペックスゲーム。2人の人間がゲーム機のケーブルを頭に差し、順番に相手のインナースペースに入って、いかに自分のアイデンティティを保つか、というゲームだが、決して2人の人格が混ざったりはしない。プレイヤーはもとの肉体に戻るか死ぬかである。こうした肉体へのこだわりがあって初めてハードボイルド的なストーリー展開が可能になる。これにアラブがからむのだが、やはり、アラブは全体の構造を決定しようとしていない。それでいて、徹底したアラブの味つけがなされている。

 これをアモルファスSFと名づけよう。3つの要素はまったく解け合わないまま混在してひとつになり、新しい物性を示す。SF、アラブ、ハードボイルド、バラバラだけどおもしろい。エッフィンジャーはどれも目指してはいないから。混ざらない3つの要素をかき回して力業で新しいエンターテイメントを作ったのだ。(共に上げたように、表紙はSF、写真はアラブ、説明はハードボイルドをそれぞれ特に強調しているようだがそれは3要素の独立を暗示している)

 結論。SFを求める人は読まなくていい。SFを楽しむ人、SFを考えたい人と、SFなんかどうドもいい人は読んで損しないと思う。SFを利用したジャンルとしては、新しいタイプのYAともいえるかもしれないな。

(小坂忠義)


Last-modified: 2006-09-18 (月) 04:08:38 (4269d)