バタリアン

最後にネタを割るよ。

かつて巨匠ロメロはゾンビ短編アンソロジー『死霊たちの宴』の序文において「このジャンルには段階的な恐怖がある。すなわち食われる人間たちの痛々しさ、ゾンビどものグロキモさ、そしてゾンビと人間を重ね合わせることで発生する根源的な恐怖だ(大意)」と述べた。*1例えば『DAWN OF THE DEAD(邦題『ゾンビ』)』では、ゾンビたちの極彩色の饗宴はその前二つを過不足無く満たしており、作品全体を見るに最後の一つにおいても完璧である。そして全く同じ点のために僕は『学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD』を(少なくとも2007年7月の現時点では)評価しない。モノクロの漫画というメディアはゾンビのグロさを伝える点で明らかに不自由があるし、そこを抜いても三番目の視点が全く欠けている。『学園黙示録』においてゾンビは重要ではなく、主人公達をさえぎるただの障害物でしかない。それではゾンビものである必然性が無い。

ではこの『バタリアン』はどうだろうか。三つの条件を満たしているだろうか?まず念頭に置いておきたいのが、これは『NIGHT OF THE LIVING DEAD』のパロディである、ということだ。前述の「ゾンビもの第三の条件」によるとゾンビは人間の戯画である、ただしこの『バタリアン』においてはそのゾンビすらさらに戯画化されるのである。ゾンビそのものはあまり恐ろしくないし、食われる人間たちにもあまり痛々しさを感じない。ゾンビのグロさに関しては、真っ黒のタールマンや脊椎を垂らしながら上半身で這いずるオバンバ、細切れにされてもカサカサ音を立てる真っ黄色いやつなどそこそこ及第点ではあるがあくまでパロディであり、その域を出ない。重要なのが第三の条件である。パロディ作品のこの映画では「ゾンビが人間の戯画であること」が圧倒的なまでに強調されている。この作品ではゾンビは話すことができる、しかしだからといって二者間でコミュニケーションが成り立つわけではない。

「どうして人間を食べるんだ?」 「人間じゃない、脳みそだよ」

まったく話は噛み合わない。食われるほうにとっては同じなのに。 そしてラスト、通報を受けた陸軍は町に原爆を落とすことでゾンビ化の波及を回避する。「どうして町に原爆を落としたんだ?」と聞かれたらきっと彼らはこう答えるだろう。「町にじゃない、ゾンビにだよ」。

バタリアン。名作である。

(片桐)


*1 今読み直したらロメロじゃなくてアンソロ編者だった

Last-modified: 2007-07-24 (火) 07:24:19 (4137d)